由緒
御祭神
  • 国狭槌尊(くにのさづちのみこと)
  • 天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
  • 木花咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)
  • 大山祇尊(おおやまづみのみこと)
  • 日本武尊(やまとたけるのみこと)
写真協力:星 悦夫様
里宮(さとみや)

八海山開闢の往時を偲ばせる苔むす里宮境内は、深閑とした森の中にある。一年を通じ各地より集まる修行者が水垢離をとり、護摩祈禱、五穀断ちをし、神意を戴く霊場である。この霊場から県内、関東一円の秀れた先達、行者が輩出した。

泰賢行者の霊窟

大崎口登拝道は享和年中、泰賢行者がこの霊窟に三年間籠もり、八海山大崎口開闢の霊夢を得て切り開かれた。

卸由緒

八海山のそもそものいわれは、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(おむろ・現六合目)に祠をもうけたのが始まりと伝えられております。八海山には投行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)、続いて弘法大師が頂上で密法修行されたという事蹟譚があり、古くから両部の霊場として、山麓周辺の修験宗寺院を中心に八海山信仰が展開されてきました。八海山信仰の歴史上の初見は、南北朝中期に編纂された『神道集』に越後の三の宮・八海大明神とあり、御祭神を元気水徳・国狭槌尊として、霊験あらたかなること、つとに近県にまで及んでいました。しかしながら時代は遥か降り近世の中期に至るまで八海山は鳴りを潜めるように、その霊威を峻険な山嶺の奥深く胎動させていました。

しかして寛政六年、木曽の御嶽山の大滝口を開いた、かの普寛行者が大神の夢告に導かれて来越し、当村の泰賢(たいけん)行者を随いて八海山登拝道を開くに及び、御嶽山の兄弟山として列格し、次第に全国にその名が知られるようになり、県境を超えて各地の講集団が訪れるようになりました。大崎口登山道は開山の偉業により一躍輿望を担うに至った泰賢行者自ら、地元大崎村の御嶽講を率いて享和三年(一八〇三年)に切り開いたもので、これが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。その後、泰賢行者は大崎口里宮を拠点に諸国を行脚し、八海山信仰の布教に身を棒げました。

こうして八海山尊神社は、八海山信仰の霊場として、その信仰は親から子、子から孫へと代々引き継がれて、今日に至っております。

泰賢行者

圓成院木食普獄泰賢(えんじょういんもくじきふがくたいけん)は安永三年、大崎村山田神主(現当神社宮司)の分家に生まる。幼少のころより霊力に秀いで、二十歳より萬願寺にて本格的な両部修行の道に入る。

寛政年間、来越中の御嶽山開闢普寛行者との邂逅によりついに八海山開闢の偉業を遂げ、生涯をその御神徳の布教と木食の難行に捧げ、文化二年、武州本庄にて行年わずか三十二歳で客死す。八海山大崎口は、享和年中泰賢行者が馬たて場の洞窟に入り、三年間の塩断ち穀断ちの末霊夢を得て開闢された。木食(もくじき)の名の通り、草実山菜を専ら食し難行苦行に徹したため晩年は健康に勝れず、道中用いた駕籠には投げ銭が上げられたという。現在も大崎口里宮は祖師泰賢の威徳を称える参拝者が跡を絶たない。